冯云骧
馮雲骧、号訥生。馮如京の長男。順治辛卯科挙人(1651年)、乙未科(1655年)進士。まず学正のために、博学鴻詞科を刑部に改任しなければならない。刑部在任中、寛大な仁恕、人はあだ名を「仏子」と呼んだ。通州食糧庁刑部の特派員を務めていた時、武人の姓は石で、かつて振武衛左屯千総を務め、雲骧と節句があった。当時、石某はちょうど通州に食糧を運び、旗丁は事をもってそれを告発し、雲骧はその事件を担当した後、冤罪であることを発見した。そこで秉公は石某のために平反した。刑部郎中の命令で四川に進学した時、州姓譚のある者は朝廷反逆罪で斬首され、すべての四川譚姓生員に巻き添えになり、すべて学生に追放された。雲骧は全事件を繰り返し審査した後、譚姓だが、あるものは夔州から数百里、さらには一、二千里離れており、実際には一家ではないことが分かった。そこで詳しく督撫を明らかにした後、刑部に上書し、罪のないつながりを回避し、数千人を反逆させた。陝西省、福建省の食糧道任内では、車を降りるとすぐに冤罪を晴らし、貪欲な虫を懲罰することを既任とし、多くの庶民が家の中でそのために祠を立て、神のように敬っている。福建布政使代理期間中に悪政を追放し、朝廷の火消帰公などの政策を全力で貫徹し、部下を拘束し、吏治を整頓し、疲労が蓄積し、慢性気管疾患にかかった。仕日には官吏が道を挟んで見送り、官署から埠頭まで、60里に及ぶ道の両側には時々見送りの人がいて、色とりどりの旗や金の太鼓が絶えなかった。康熙三十七年(西暦1698年)代州で病没した。享年71歳。
遺著は「雲中集」、「国雍草瞻華稿」、「蜀遊編」、「松化石雑著」など10巻余り。