冯祖悦
馮祖悦、字鐘冀、別名敏斎。曽祖は京の如し、祖雲骕、父欽、康熙辛卯挙人、刑部四川司主事。祖悦中雍正元年(1723年)恩科郷試、翌年進士となる。また2年後に戸部江南司主事を補い、河南司員外郎に昇進し、陝西己酉科郷試の司会を命じられた。戸部郎中が陝西省甘州府知府を外に置いた時、朝廷は新疆で兵を使っていたが、すべての食糧、兵器などの軍需物資はすべて手で料理しなければならなかった。乾隆3年(西暦1738年)平慶道按察司副使に昇進した。翌年には洮岷道を調合する。洮岷は少数民族の集中居住地区であり、24の土司を管轄し、屯田、茶馬貿易、民事などのこまごました事務を管理し、祖先は清廉潔白で自律的で、誠実に人に接し、3年間勤務し、両袖清風である。しかし、公務に巻き込まれて退官された。相前後して父と祖母のために親孝行を終え、吏部補は河南省陳州府知府に任じられた。東に降り立つと、ちょうど長雨の洪水に遭遇し、水害から西花の青龍堤まで視察した。洪水が激しく、堤防が決壊しそうになり、堤の上には人々が慌てふためいていたが、祖悦は堤防に座り込み、「堤防を補強し続け、避難者がいて、決して軽貸しない」と叫んだ。政余時間、祖悦はまた学校建設に力を入れ、名師の授業を備え、陳州の「弦歌書院」を河南省の最高の書院にし、多くの優秀な人材を育成した。しかし部下の犯行により、失察の罪で再び江南督糧同知に格下げされた。乾隆16年(1751年)皇帝は南巡し、雷州知府に親授した。着任後は少数民族に対して誠実に接し、理政廉潔で洗練され、官吏を審査する際に督撫されて本省の「卓越した第一」に推挙された。入朝賜封に至らず、乾隆20年に役所で病没し、64歳だった。官吏の懐は百金に満たず、督撫や同僚が次々と資金を寄付し、棺は埋葬された。
祖悦仕の道はでこぼこで、2回もけなされ、しばしば吏議を受けたが、私的なことはなく、雍正、乾隆両朝の皇帝の認めを得て、朝中公に操守があり、幹事ができる良吏がいると思われた